<画像:jpg>今ICOと走ると沙耶ルートの観点から考察を書こうと思ってて全然筆が進まないんだけど、沙耶シナリオの考察をLoneStarSaloon氏が別の切り口からやってたので紹介しつつ、思った事などを。ネタバレ全開につき注意。
1月26日 ブコメに反応 麻枝さんのユーザーに任せる発言は、つまり「解釈は自由だ」って事だからどんな考えも誰も否定できないって事じゃないでしょうか。
という訳で連載?なのかな。沙耶シナリオ考察第2弾。
前回の話:Love Songと沙耶シナリオ考察 麻枝曲「走る」から
今回は「走る」とかの話は置いといて、とりあえずLoneStarSaloon氏の考察だーまえ・いず・でっと(下書き)に関しての僕の意見を書いてみた。
主人公の理樹くんではなく沙耶当人です。いやもう恭介たちが作った虚構になんか勝手に紛れ込んで遊び散らかして、でも本質的には孤独で、その虚構から抜け出すには"自分で終わらせるしかない"なんてモロにまんまじゃないですか。彼女は銃で自分を撃たなきゃ終わらせられないわけで、わたしたちは自分で電源切らないと終わらせられない。
だーまえ・いず・でっと(下書き)
面白い考察。
また、以下のエントリも沙耶=ユーザーと捉え、沙耶の死=ユーザーが終わらせる と捉える点で全く同じ考察をしている。
沙耶シナリオにおいて、その"続けることもできる"虚構をどうやって終わらせるか。それはプレイヤーの"続けることもできる"虚構――ゲームの終わらせ方と、同じです。自分の手で電源を切って自分の意思で終わらせない限り、永遠に続いてしまう。
麻枝准が作り出した永遠にお別れを――リトルバスターズ!エクスタシー
お二人の考察は非常に面白い。
けど僕はちょっと違った印象を持っていて、
沙耶シナリオって色んなメタ読みの仕方があって、お二人が言うように沙耶=ユーザーも出来るんだけど、理樹=ユーザーでも出来ちゃう。
というと、ゲームってのは基本的には製作者の意図通りに事が進行してて、ユーザーが遊び散らかす事も結局製作者が決めた枠内での話しだろうと僕は思ってて。